
「くもり硝子の向こうは風の街……」 イントロが流れた瞬間、
あの低く渋い歌声と、独特のサングラス姿を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。
1981年、日本中を席巻した「ルビーの指環」。しかし、その生みの親である寺尾聰さんの真の姿は、
単なる「ヒット歌手」や「名俳優」という言葉だけでは語り尽くせません。
実は、彼のキャリアの原点は「ベーシスト」にありました。 俳優として数々の賞を総なめにし、ミュージシャンとして金字塔を打ち立て、そして2026年現在もなお現役として進化を続ける寺尾聰さん。今回は、そんな彼の知られざる音楽的ルーツから、役者としての深み、そして「今」の活躍まで、その多才な魅力に迫ります。
寺尾 聰(てらおあきら)
1947年5月18日
神奈川県横浜市生まれ
176cm A型
ベーシスト、シンガーソングライター、俳優
実父は俳優の宇野 重吉(1988没)
寺尾 聰は胃を摘出していた
寺尾聰さん。若い頃(30代)に大病をされています。
「穿孔性胃潰瘍(せんこうせいいかいよう)」
聞き慣れない病気ですが、重度の胃潰瘍だったのでしょう。
この為に胃のほとんど(三分のニ)を摘出する手術を受けています。
それ以前は多少ふっくらとしていたそうですが、手術以降は現在のように細身になられています。
何より完治して良かったですよね。
しかも30歳くらいの時に発症されたようで。
若いからと油断は出来ません。
この様な著名な人の病気の話も他人事にせず、教訓にしたいものです。
昭和・平成・令和を駆け抜ける表現者:寺尾聰の軌跡
1. 金字塔を打ち立てた名曲「ルビーの指環」
寺尾聰さんを語る上で欠かせないのが、1981年に大ヒットした「ルビーの指環(ゆびわ)」です。
- 歴史的記録: 人気番組『ザ・ベストテン』で12週連続1位という、番組終了まで破られることのなかった金字塔を打ち立てました。
- 異例のヒット: 当初は周囲から反対されたものの、石原裕次郎さんの後押しでレコード化が実現したという逸話があります。
- 洗練されたサウンド: 作詞・松本隆、作曲・寺尾聰、編曲・井上鑑という最強の布陣で、当時の歌謡界に「都会的で洗練されたAORサウンド」という新たな風を吹き込みました。
2. 低音ボイスが魅力の「ミュージシャン」として
俳優のイメージが強い寺尾さんですが、その音楽的才能は本物です。
- 独自のスタイル: 渋みのある低音ボイスと、自身で作曲を手がけるメロディセンスが特徴です。アルバム『Reflections』は、当時の日本音楽界で驚異的なセールスを記録しました。
- ライブへのこだわり: 近年でも「寺尾聰ライブツアー2025」を開催するなど、精力的にステージに立ち続けています。2023年末のNHK紅白歌合戦では、テレビ放送70年を記念した特別企画で「ルビーの指環」を披露し、多くの視聴者を釘付けにしました。
3. 深みのある演技で魅せる「役者」の顔
父・宇野重吉さんの背中を追い、1968年に俳優デビューして以来、日本を代表する「役者」として第一線で活躍しています。
- 名匠に愛されて: 黒澤明監督の『乱』『夢』『まあだだよ』などに出演し、自然体かつ存在感のある演技で高く評価されました。
- 多彩な役どころ: ハードな刑事役から、映画『博士の愛した数式』で見せた繊細な博士役まで、その演技の幅は計り知れません。日本アカデミー賞最優秀主演男優賞をはじめ、数々の栄誉に輝いています。
4. 2026年、進化を続ける「現在」
現在も、寺尾さんの勢いは衰えるどころか、さらなる広がりを見せています。
- 最新作への出演: 2025年から2026年にかけても、映画『父と僕の終わらない歌』や『アンジーのBARで逢いましょう』、ドラマ『おコメの女』など、多くの話題作に出演。
- レジェンドとしての存在感: 役者として深みを増しながら、ミュージシャンとしても活動を続けるその姿は、世代を超えて多くの人々に支持されています。2026年も、映画やドラマのスクリーンを通じて、唯一無二のダンディズムを見せてくれることでしょう。
ミュージシャンとしての寺尾聰を深堀
ミュージシャンとしての寺尾聰さんは、俳優としてのイメージ以上に長く、深いキャリアを持っています。1980年代の「ルビーの指環」での大ブレイクは、実は長い下積みと音楽への情熱が結実したものでした。
ミュージシャン・寺尾聰の原点:GS時代の活躍
寺尾さんの音楽キャリアのスタートは、1960年代後半のグループ・サウンズ(GS)ブームにまで遡ります。
- 「ザ・サベージ」の結成: 大学在学中の1966年、カレッジ・フォーク・グループ「ザ・サベージ」のベース兼ボーカルとしてデビューしました。
- デビュー曲のヒット: デビュー曲「いつまでもいつまでも」は大ヒットを記録。都会的で爽やかなサウンドは当時の若者から絶大な支持を得ました。
- 脱退と修業: 1967年に俳優の道へ進むためバンドを脱退しますが、その後もジャズを学ぶなど、音楽への探究心を捨てていたわけではありませんでした。
11年越しの開花:シンガーソングライターとしての顔
俳優として活動する傍ら、1980年にシングル「SHADOW CITY」で本格的に音楽活動を再開。翌1981年に「ルビーの指環」で社会現象を巻き起こします。
- 自ら作曲を手掛ける才能: 「ルビーの指環」を含むアルバム『Reflections』の楽曲の多くは、寺尾さん自身が作曲しています。
- シティ・ポップの先駆け: 井上鑑氏による洗練されたアレンジと、寺尾さんの渋い低音ボイスが融合したサウンドは、今や「シティ・ポップの金字塔」として再評価されています。
- 石原裕次郎さんとの絆: 俳優としての所属先であった石原プロの総帥・石原裕次郎さんは、当初音楽活動に懐疑的だった周囲を説得し、寺尾さんのレコード制作を後押ししたという有名なエピソードがあります。
現在も続く「音」へのこだわり
2026年現在も、寺尾さんの音楽に対する姿勢は変わりません。
- ライブ活動の継続: 2000年代以降、ライブを中心に音楽活動を再開。2025年にはライブツアーを開催するなど、70代後半を迎えてもなお、現役のミュージシャンとしてステージに立ち続けています。
- 「ルビーの指環」を超えて: 懐メロとして歌うのではなく、常に「今の音」として自身の名曲をアップデートし続ける姿は、多くの後輩ミュージシャンからも尊敬を集めています。
寺尾聰はベーシスト
ミュージシャンとしての寺尾聰さんの原点を語る上で欠かせないのが、彼が「ベーシスト」であったという事実です。
1. 担当楽器は「ベース」
寺尾さんは、1960年代に結成したグループ・サウンズ(GS)バンド「ザ・サベージ」において、ベースとボーカルを担当していました。
- リズム隊としての顔: 当時は歌手としてだけでなく、楽器奏者としても活動しており、この時に培ったリズム感やコード感が、後の「ルビーの指環」などの作曲活動にも大きな影響を与えています。
- ベースへの愛着: 近年のライブでも、自身でベースを手に取って披露したり、楽曲の中でベースラインに強いこだわりを見せたりするなど、現在もベーシストとしてのアイデンティティを持ち続けています。
2. 「ザ・サベージ」でのデビュー
もともとは役者ではなく、音楽がキャリアのスタートでした。
- カレッジ・フォークの旗手: 1966年に「いつまでもいつまでも」でデビュー。この曲は大ヒットし、一躍人気バンドの仲間入りを果たしました。
- インストゥルメンタルへの造詣: ザ・サベージはもともとインストゥルメンタル(歌のない演奏のみ)のグループだったという側面もあり、寺尾さんの音楽的素養の高さがうかがえます。
3. 作曲家としてのこだわり
「ルビーの指環」の制作時、寺尾さんはシンガーソングライターとして、デモテープの段階から緻密な構成を考えていました。
- 低音へのこだわり: ベーシスト出身ということもあり、彼の楽曲はベースラインが非常に印象的で、都会的なグルーヴ感を生み出す鍵となっています。
- 楽器奏者としての信頼: ライブでは一流のミュージシャン(今剛さんや高水健司さんなど)をバックに迎え、自身も楽器の鳴りやアンサンブルを非常に大切にするスタイルを貫いています。
まとめ
グループ・サウンズのベーシストとして産声を上げ、ソロアーティストとして頂点を極め、そして日本映画界に欠かせない重鎮となった寺尾聰さん。
その歩みを振り返ってみると、彼の中には常に「音楽家としてのリズム」と「役者としての眼差し」が共存していることがわかります。だからこそ、彼の演じる役にはメロディのような情緒があり、彼の歌う曲には映画のような情景が宿っているのかもしれません。
2026年、78歳を迎える今もなお、映画のスクリーンやライブステージで新しい姿を見せ続けてくれる寺尾さん。過去の栄光に甘んじることなく、常に「現在の音」を鳴らし続けるそのダンディズムから、今後も目が離せません。
次に彼が奏でる「一音」、あるいは演じる「一幕」は、私たちにどんな景色を見せてくれるのでしょうか。


コメント